Heritage Akashi ヘリテージ明石

2021年9月15日現在
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2021年 9月11日 更新
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大久保西脇から魚住金ヶ崎のマップ制作中!
9月25日(土) 大久保西脇・魚住金ヶ崎のまち歩き開催します      (詳しくは お知らせへ)

9月11日(土) 下打ち合わせに行ってきました!

2020年度作品 第9弾
 「藤江・松江」マップ完成!
表 紙

御崎神社の的射神事(御崎神社の東経・北緯を示す)
デザイン 近藤祐衣 高原幸代 高見優菜 寺尾心作
     (明石工業高等専門学校)
「藤江・松江」について

 「藤江」の地名の由来には神功皇后が関わり、本誌の裏表紙にある「荒たえの藤江の浦に鱸釣る 海人とか見らむ旅ゆく我を」という柿本人麻呂の和歌が万葉集に納められているように、「藤江」は古くから名前が知れたところです。
 他にも藤江には「新羅の鉄船の伝説」などがあり、古墳時代からの遺跡も残っています。
 また「松江」には「明石」の由来にもなった「赤石」や畿内の西端と言われる「赤石の櫛渕」があります。他にも貴崎神社の「大蛸伝説」が伝わっています。
 いずれも古い歴史を持つこの地域が、新産業の進出や戦争、再開発による住宅の増加、侵食海岸の海岸整備などの影響を受けて、現在は大きな変化を遂げています。
 それでも、まちをゆっくりと歩けば一昔前の「藤江・松江」が見えてきます。この冊子を片手に消えかけた歴史に想いを馳せてください。
「藤江・松江」について

 「藤江」の地名の由来には神功皇后が関わり、本誌の裏表紙にある「荒たえの藤江の浦に鱸釣る 海人とか見らむ旅ゆく我を」という柿本人麻呂の和歌が万葉集に納められているように、「藤江」は古くから名前が知れたところです。
 他にも藤江には「新羅の鉄船の伝説」などがあり、古墳時代からの遺跡も残っています。
 また「松江」には「明石」の由来にもなった「赤石」や畿内の西端と言われる「赤石の櫛渕」があります。他にも貴崎神社の「大蛸伝説」が伝わっています。
 いずれも古い歴史を持つこの地域が、新産業の進出や戦争、再開発による住宅の増加、侵食海岸の海岸整備などの影響を受けて、現在は大きな変化を遂げています。
 それでも、まちをゆっくりと歩けば一昔前の「藤江・松江」が見えてきます。この冊子を片手に消えかけた歴史に想いを馳せてください。

「藤江・松江」より抜粋  

馬塚の碑(五輪塔)

藤ヶ丘団地の西端に供養塔があります。昭和3年から11年間公営の明石競馬場として開催されていました。開催中の競走馬の事故死とか馬舎の出火による焼死等があり、その供養のために関係者や住民等が建立し祀っています。



海岸沿いの高木

林崎・松江海岸のトロピカルム-ドを盛り上げるために植えられたヤシの木です。こちらからは明石海峡大橋と淡路島、水のきれいな400mにわたる自然の海岸線を望むことができます。

なまこ壁の土蔵

藤江川沿いに立派な土蔵を見かけました。腰壁の斜めの目地が、漆喰塗で、なまこに似ていることから「なまこ壁」と名づけられ、防風や防雨の働きがあります。ここは海や川にも面しているのでなまこ壁を活用したと思われます。

龍泉寺

建長6(1254)年に法燈国師開基の伝承を有する鷲峰山龍泉寺は元禄14(1701)年に臨済宗法雲和尚により再興されました。江戸時代末期には寺小屋が開かれ、明治5年の学制により二江小学校開校の前身となりました。

山伏塚

地元できょうがくさんと呼ばれ、昔は幼子が亡くなったとき家の墓には入れずここに埋葬したそうです。近くに住んでいた教覚さんという子供好きの山伏が祀られており子供が病気になった時ここで祈ると治るという話もあります。

山伏塚

地元できょうがくさんと呼ばれ、昔は幼子が亡くなったとき家の墓には入れずここに埋葬したそうです。近くに住んでいた教覚さんという子供好きの山伏が祀られており子供が病気になった時ここで祈ると治るという話もあります。

これまでの           明石ヘリテージまち歩きマップ

明石のヘリテージまち歩きマップを制作しています。
まずは 明石高砂道沿い 9冊分を完成させました。
10冊目からは 旧山陽道沿い で作成中です。
(令和4年3月完成予定)
明石市は海に面して、東西に16kmの細長い街です。ヘリテージまち歩きマップでは、2時間で歩けるくらいを目安に作成しております。
 1年毎の制作ですので、中には時間の経過と共に消滅してしまったポイントもあります。そんなことに気づくのも、明石の魅力の再発見になるのかも知れません。

明石市は海に面して、東西に16kmの細長い街です。ヘリテージまち歩きマップでは、2時間で歩けるくらいを目安に作成しております。
 1年毎の制作ですので、中には時間の経過と共に消滅してしまったポイントもあります。そんなことに気づくのも、明石の魅力の再発見になるのかも知れません。

これまでのマップ

第1回 江井島
 造り酒屋が多く見られます。江井島港は「魚住の泊」と呼ばれ、行基が開いた「摂播五泊(河尻・大輪田・魚住・韓・室)」の一つです。 深い歴史の町に明るい明石瓦の町並が美しいです。
第2回 大蔵
西国街道(近世山陽道)の宿場町として発展しました。旧街道沿いにうだつのある町屋が残っています。寺社やお地蔵様、漁業・焼物などの産業施設の跡を訪ねながら、細やかな路地をまち歩きします。
第3回 魚住
 中尾の住吉神社は神功皇后の頃よりの神社です。
 造り酒屋、醤油屋さんなど地場産業が今にも引き継がれています。
 街道沿いの歴史ある家屋や牡丹寺で有名な薬師院などを散策します。
第4回 二見
 古代は「歌見」と呼ばれ、漁港や積出し港で発展しました。橋梁で有名な横河家の出身地です。菅原道真公の「仮寝の松」、相撲力士の墓など見所が満載です。
第5回 城下
 明石城の南に位置する文字通り明石の中心地です。 宮本武蔵が計画したと言われる城下町の町割り、港や町屋、商家、寺社、劇場などを巡ります。 明石市の発展の歴史が見えてきます。
第6回 人丸
 子午線が通過する町です。 歌聖「柿本人麻呂」、源平合戦の武将「平忠度」を祀っています。 大蔵谷村と明石町の間に位置し、明治時代は郡役場や郡立公会堂、裁判所などが建ち並び、明石郡の官庁街でもありました。
第7回 船上・林
 キリシタン大名の高山右近が築城した「船上城」の城下町 室町期より瀬戸内随一の好漁場「播磨灘」を取り仕切っていた「林村」の町並みや町区ごとに祀っている神社を巡ります。
第8回 八木・東江井
 昭和40年代、明石の主要産業であった「瓦産業」の中心地でした。今は新しい産業や住宅地に変遷しつつあります。自然の湧水場である「どっこいしょ」など井戸も多く、水に恵まれていました。 明石特有の海岸段丘「屏風ヶ浦」の貴重な風景が残っています。
第2回 大蔵
西国街道(近世山陽道)の宿場町として発展しました。旧街道沿いにうだつのある町屋が残っています。寺社やお地蔵様、漁業・焼物などの産業施設の跡を訪ねながら、細やかな路地をまち歩きします。

活動内容
マップ取材 & 編集会議

マップづくりの取材前の勉強会

 取材前に地域の特徴や成り立ちを頭に入れておけば、ポイント探しの大きなヒントになります。
 あらかじめ文献などで得た情報をみんなで共有する場でもあります。
 この時に「いろいろな疑問」が浮かんでくれば まち歩きの「テーマ」になります。

取材した結果の発表会
質疑応答が楽しい!!
お弁当を食べながらのミーティング
地元の方との会話も大切
地元の方との会話も大切

 パブリシティ 

お知らせ 最新の予定

まち歩きの予定 2021年9月25日(土)

 テーマ 西脇・金ヶ崎を歩く 
 時 刻 午前9時30分集合 12時ごろ意見交換 解散
 場 所 明石市魚住町金ヶ崎1368
     金ヶ崎文化センター(正覚寺前)
 
(緊急事態宣言が継続されましたので 自由参加とします)
連絡先 090-3166-9440  anpanman1954@icloud.com   吉川

集合場所の地図

現地 金ヶ崎文化センター
送迎ポイント 大久保駅北
送迎ポイント 大久保駅北

参 考 メ モ

まち歩きの前に読んでおくと 少し役に立つかも・・・

西脇・金ヶ崎の気になるポイント
  角川日本地名大辞典 28兵庫県より 
金ヶ崎 かながさき 
 赤根川上流の西。印南野の南東端にある金ヶ崎山の南沿いに西国街道が東西に通り、沿道に集落が形成された。 地名の由来に関して、金ヶ崎そばの逸話が残っている。かつて金ヶ崎そばと名付けて売る者があった。金銀細工を職業とする人が畳の上におちた金の屑を取る時、金屑の上にそば粉を混ぜるとよく取れたという。そこでそばは金を山の如く寄せた。金ヶ崎の崎の字を二つに分けると山と奇になる。奇の字を寄せるという字と誤って金崎山と金寄山を混同したという(明石名勝古事談)。なお、「明石市史」では高麗僧惠弁が金ヶ崎の法音寺を開いたとしている。

(中世)かながさき 南北朝期に見える地名。

 播磨国明石郡のうち。応安4年2月に京都をたって九州へ向かった今川了俊が著した紀行「道ゆきぶり」に「し水・かながさきなどうちすぐるに」と見える(群書18)。

(近世)金ヶ崎村 江戸期〜明治22年の村名。

 明石郡のうち。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年姫路藩領、元和3年からは明石藩領。野々上組に属す。
 村高は「正保郷帳」898石余うち田760石余・畑138石余、明石領地図裏(田中源左衛門文書)1016石余、「天保郷帳」1015石余、「旧高旧領」1016石余。枝村に柳井がある。『明石記」によれば、村の規模は東西160間・南北30間、郷蔵、池23、小淵21、高札場、石橋・土橋各4、飛橋8があり、寺院は一向宗正覚寺、神社は住吉大明神(播磨名所巡覧図会で黒石明神を氏神とする)。柳井に大歳神社がある(采邑私記)。
 正覚寺は文明2(1470)年の開基で寺宝は親鸞自作の上人寿像といい、現本堂は享保2(1717)年の建築で、棟梁は和坂(かにがさか)の左甚五郎であった(魚住村誌)。
 当地中央で西国街道から太山寺道が分岐し、大きな道標に「左太山寺」と刻まれる。
 文化元(1804)年蜀山人の「革命記行(革令紀行の誤字)」に「人家多くそば麦うるもの多くみゆ」などとあり、「采邑私記」には、当村と長坂寺村は藁蓆(わらむしろ)を織り、売っていることが見える。藁蓆は西江井村・東江井村から大坂へ船で運ばれ売られていた(明石市史)。
 枝村柳井の浄土宗延命寺の南、赤根川沿いの水田の柳井戸は、伝説によると、魚住の泊を築いた行基が入港船に清水を補給するために掘ったものといわれ、この井戸をわき穴ともいった(魚住村誌)。近年の赤根川改修工事のときになくなった。
 延命寺は寺伝によると、天平12年行基の開基と伝え、長坂寺(長幡寺)の塔頭寺院の1つであった。同寺は南北朝の争乱の頃に焼け、再建されたが、天正7年の三木合戦の兵火で再び消失した。現在の延命寺の場所にはかつて長坂寺の絵馬堂があった。
 柳井には行基ゆかりと伝える香盤池がある。一歩でも足を入れると祟があると言い伝えてきた。しかし、県道明姫幹線道路工事に伴い一部が削り取られ、整備されて景観も変貌した。戦前にこの池の北方を開墾した時、棺桶や寛永年間の銘を有する古銭が出ている(魚住村誌)。
 江戸期に西灘の酒といわれた江井島の酒造用の水に柳井戸の水を用いたとも伝える(同前)。なお、慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)に柳井村の名がある。「明石記」に魚住庄柳井村は金ヶ崎村のうちと見え、村の規模は南北70間・東西25間、郷蔵、才の神、住吉大明神、地蔵堂と灯明田1反などが記される。
 柳井の住吉神社は明和2年の創立(魚住村誌)。明治初年柳川村を合併したとするが(県市町村合併史)、柳川村については不詳。あるいは柳井村のことか。
 明治12年の田89町余・畑28町余・薮3反余、同14年の戸数123・人口625(播磨国地種便覧)。

 安政6年からの村内篤農家による寺子屋は明治5年廃止、翌年益習学校、同10年に清水村・浜西村との浜西簡易小学校となる。(日本教育史史料・魚住小学校創立七十周年誌)。同22年魚住村の大字となる。

(近代)金ヶ崎 明治22年〜現在の大字名。昭和26年からは魚住町を冠称。
 はじめ魚住村、昭和26年からは明石市の大字。明治24年の戸数128、人口は男353・女342、寺2。世帯数・人口は、昭和25年209・1109、同30年216・1132。明治24年住吉神社と黒石神社を合祀し金ヶ崎神社と改称。なお、黒石神社には神体の黒石が年々太っているという伝承や、旅人が旅の安全を祈って境内の小石を借りていき、無事帰ると2つにして返すという風習があった(魚住村誌)。
 昭和8年開通の神明国道(現国道2号)沿いに工場・商店が進出し、住宅も増加している。同47年山陽新幹線が開通し、柳井地区は騒音・振動に悩まされている。兼業農家がほとんどであるが、水田も多く、明石キャベツなど近郊野菜の生産も多い。昭和62年には県営の圃場整備が行われる。            
                     以上 地名辞典より

赤根川金ヶ崎窯跡   明石市魚住町金ヶ崎字大池下    古墳時代
 この遺跡は赤根川を北にさかのぼった、印南野と呼ばれる広域な段丘面の水田地帯に位置しています。ここから東の赤根川に向かっては、高低差が約3.5mもある崖面がつくられています。
 分布調査で傾斜面上から古墳時代(6世紀前半)の須恵器片が大量に発見され、昭和63年に発掘調査が行われることになりました。この調査の結果、赤根川の支流によって浸食された急流の南東突端部、赤根川との最短距離が約60mという地点で古墳時代の須恵器を焼いていた窯1基と灰原、同時期の溝などが発見されました。
 窯体は、水田耕作のために煙り出しと焚き口が既に失われていましたが、他部分の残存状況が良好でした。窯の残存長は8.1m、窯内における最大幅2.2mで、焼成部の残存長は2.4mありました。この窯体の中から整理箱で約10箱の須恵器が出土しました。
 須恵器の器種としては杯蓋(つきふた)、杯身(つきみ)、高杯、甕、器台などがありました。そして、焼成に失敗したものを捨てた灰原からは整理箱100箱もの遺物が出土しました。ここからは杯蓋、杯身、高杯、壺のみならず装飾付き須恵器や角杯形(かくはいがた)土器、特殊陶板(とくしゅとうばん)、土師器の壺などが出土しました。
 装飾付はそうにはサンショウウオを象った小さな像がつけられていました。特殊陶板の表面は、中央部を中心にほぼ左右対称の文様が鋭利な刃を持ったヘラ状の工具でV字状に削り込まれていました。
 溝は、本来は小谷筋の自然流路であったものと思われ、焼成された製品を船で赤根川本流へ積み出す際の搬出経路として利用されていた可能性が高いとされています。この溝からは角杯形土器をはじめとする整理箱約80箱の遺物が出土しました。
 須恵器の製作技術は5世紀中ごろに朝鮮半島から伝えられ、大阪府南部の陶邑窯を中心に生産を開始します。そしてこの技術は5世紀後半から6世紀初期にかけて地方に拡散していきます。本遺跡もまさにこの時期に須恵器生産を開始します。中でもこの窯では、角杯形土器や子持壺、装飾付はそう、筒型器台といった朝鮮半島の影響の強い遺物が出土していることから、窯が築かれるにあたり、そうした技術を持った渡来系集団が大きく関与していたことが想像できます。
 中でも角杯形土器は、国内では石川県、岐阜県などからのわずかな出土例しか知られていない特殊な土器で、特に窯からの出土した福井県興道寺窯跡に次いで全国で2例目となるものです。また、小像を施した装飾付須恵器は、朝鮮半島の中でも新羅地域に多いことが指摘されています。
 こうしたことから、この周辺地域の政治的・社会的諸関係を探っていくうえで、極めて貴重な遺跡であるといえます。

三木合戦と寺院
 三木合戦時の別所に味方した近隣の8寺院
 長坂寺(別名:長幡寺・廃寺)、遍照寺(長坂寺)、延命寺(柳井)、報恩寺(西脇・焼失後再建されず廃寺)、西光寺(西脇)、如法寺(西島/森)、薬師院(西岡)、西福寺(清水)が報復により焼かれた。また村落では西島、森、西岡、浜谷、中尾、山川も報復を受けた。
 秀吉側の本陣であった大窪の光触寺は秀吉が腰をかけて休んだと言う「太閤腰掛松」で有名。

柳井村(明石市魚住町金ヶ崎)
 赤根川中流の西側、金ヶ崎村の南側にある。明治8 (1875)年金ヶ崎村に合併。「明石記」によれば金ヶ崎のうちで、村の規模は東西25間・南北70間。金ヶ崎高札場から8町。郷蔵1・小藪 1、産土神の住吉神社、村の檀那寺である浄土宗延命寺、地蔵堂があった。当地には行基にちなんだ香盤池があり、この池に足を踏み入れると祟りがあると伝える。
 赤根川沿いにある柳井戸は、魚住泊を築いた行基が入港する船に清水を補給するために掘らせたと言われる。江戸期に西灘の酒と親しまれた江井島の酒造用の水として、柳井戸の水が使われたと言う(魚住村誌)。この井戸は「湧き穴井戸」「念佛井戸」とも呼ばれたが、昭和45 (1970)年に赤根川の改修工事によりなくなった。

延命寺(えんめいじ)
 浄土宗で山号は青柳山。本尊は地蔵菩薩、寺伝によると天平12 (740)年に行基が開山し、長坂寺(廃寺)の塔頭寺院として遍照寺と共に魚住周辺の信仰の中心となっていた。立派な伽藍を持っていたが、南北朝時代初めの建武の頃 (1334〜1336)の兵乱で長坂寺もろとも焼失、絵馬堂があった現在のところに当寺の住職が苦労をして再建をしたと言う。しかし後年の天正7 (1579)年には秀吉の三木城攻めに巻き込まれて、再び全てが焼けた。
 現在の本堂は昭和10(1935)年に再建されたもの。地元では地蔵菩薩様と呼び毎年、地蔵盆の8月24日に開帳される(金ヶ崎 898)。

柳井住吉神社(やないすみよしじんじゃ)
 祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命。海上守護と開運の神で、天明元(1781)年に建立(明和2(1765)年説も)。祭祀は大久保の住吉神社の系統になり、そこの宮司が神事を行っている。

西脇の報恩寺(三木合戦時、豊臣方により焼失し再建されず、廃寺)
 廃寺跡から室町時代の瓦が出土し、法隆寺を改修した奈良の瓦大工の橘吉重の幼名の彦次郎名が刻まれていたため話題になった。大久保周辺は奈良時代から多くの寺院が建立され、奈良の瓦師の一族である橘氏がたびたび訪れて普請に当たったと言われている。
香盤池(こうばんいけ)
 柳井の延命寺から北へ200mの明姫幹線沿いに、行基が亡くなった人を弔うために作ったのではないかと言われる池がある。池は周りに樹木が茂り、形は楕円形をしており、広さは約 2,000m²、中に島が4つあったが今は2つとなっている。
 村人はこの池の木を伐るのを禁じられていた。祟りがあるというものであり、天正8 (1580)年の三木城落城の際に、別所長治の一族が殺され、埋葬された所と言う伝承から来ている。事実、水田の開発を行った時に、多くの人骨と六文銭が発見されたことや六地蔵があって霊を祀っている事が背景にある。
 柳井の北の明姫幹線の信号近くに墓地があるが、明姫幹線の工事前は村の戸数に比して相当大きな墓地であった事から別所一族など多くの人が埋葬されたのではないかと言われている。
 明姫幹線の工事に際して、香盤池を一部壊すことになるので地元の人や延命寺住職によって昭和54 (1979)年に丁重に供養をするとともに、そこにあった六地蔵を、延命寺の本堂南側の境内に移し、五輪の供養塔も建てた。
 明姫幹線の開通にともない、明姫幹線の信号北東に新たに六地蔵が作られている。

金ヶ崎の気になる地名

鳥ヶ谷  鳥ヶ谷温泉 があった。 のちに 神鋼基地 のちに 住宅
西脇遺跡 鳥ヶ谷 後期旧石器時代 s36年発掘 春成秀爾
祭ノ神  全国に 長岡京市 秋田県 青森県 長野県 などにもある
山ノ神戸 全国に 愛知県 静岡県 などにもある
中ノ坪  全国に 福岡県志免町 
         中ノ坪 一ノ坪 二ノ坪 八ノ坪 トヲガ坪 早苗坪 口ノ坪
         条里制の名残か
 (参考)一般的な条里制 1歩(1.09m)12歩✖️30歩=1段(428m2)
     10段=1坪(4277m2) 36坪=1里(0.154km2)が村の単位 
     そのうち 30坪が田畑 残りの6坪で宅地・神社・園地

大将軍 宝園 亀府 石鎚 など 

古墳  魚住町清水上野 幣塚(糠塚) 円墳
    魚住町金ヶ崎山 文五郎塚   円墳

 

 

2021-2022 活動予定の 大久保町西脇〜魚住町金ヶ崎についての 情報を集めていきます。

情報ボックス

今回の探索範囲
1

大久保西脇〜魚住金ヶ崎

初回のまち歩きの範囲の地図です。参考メモにも書かれているように字名(あざめい)に大将軍・亀府・山ノ神戸・祭ノ神など興味深い地名が残ります。また中ノ坪など条里制の名残の地名もあります。この地域の氏神であった住吉神社と黒石神社が合わさってできた金ヶ崎神社、仁賢天皇と顕宗天皇を祀った宗賢神社、豊臣秀吉の兵火を浴びた西光寺などの寺社も存在しています。
9月11日(土)下打ち合わせ

一般財団法人金ヶ崎コミュニティ協会 事務局長 木下嘉数 さん
金ヶ崎 郷土史家 佐藤 猛 さん
ヘリテージ明石 田中正三 吉川 悟

初回のまち歩きに向けて 地元の方と金ヶ崎文化センターにおいて打ち合わせをいたしました。そこで貴重なお話を伺いましたので 皆様にご報告いたします。

1 住吉神社は西海酒造の西側にあった。
  現在は黒岩神社と合祀され金ヶ崎神社となっている。

2 金ヶ崎神社の本殿の床下には黒岩神社の御神体である黒岩がある。

3 金ヶ崎地区の寺は、正覚寺だけである。

4 金ヶ崎に多い姓 楞野 佐藤 西海 
  西脇 に多い姓 寺嶋 立花 生頼

5 金ヶ崎神社のお祭り 10月9日10日 神輿(担ぎ・ふとん)太鼓蔵
  合祀(明治40年)100周年

6 金ヶ崎の大庄屋 楞野重右衛門 屋号メガネ屋 米相場を見る望遠鏡

7 正覚寺が三木合戦で兵火を浴びなかったのは光触寺との友好関係

8 鳥ヶ谷公園に鳥ヶ谷温泉の石垣の跡

9 鳥ヶ谷温泉は報恩寺の跡

10 大道池の向かい横山家 お茶屋 貧乏人を助けたので 大道池を貧乏池

11 横山家 魚住之太子 小式部内侍 の石碑

12 古前中池の南 (関西電力変電所北側)に墓地

13 正覚寺墓地は 北側に埋め墓

14 大道池の西に 邑美の駅家

15 正覚寺の秘仏 1寸8分の観音様 

16 西国街道  長池本陣(石井家)→大久保本陣(安藤家)

過去のイベントなどのお知らせ

まち歩き
平成24年度 江井島
まち歩き
平成26年度 魚住
まち歩き
平成28年度 城下
まち歩き
H29年度 人丸
まち歩き
H30年度 船上・林
まち歩き
H31(R1) 八木・東江井
まち歩き
R2年度 松江・藤江
講演会
図書館
まち歩き
平成28年度 城下

第1回  『江 井 島』

第2回 「大 蔵」
第3回 「魚 住」
第4回 「二見」
第5回 「城下」
第6回 「人丸」
第7回 「船上・林」
第8回 「八木・東江井」
第9回 「藤江・松江」

事務局 所在地

朝霧病院から朝霧川の東岸を北へ約800m
朝霧中学校の西門の前
株式会社吉川工務店の2階
明石市東山町3773-37
📞 078-911-3911
📠 078-911-3912
代 表  吉 川  悟
📞 090-3166-9440
📨 anpanman1954@icloud.com

メンバー    Members 

明石市内で活動する建築士が中心。
一般の方も、募集中。

代表

吉川 悟
1級建築士
ヘリテージマネージャー(建築・庭園)
株式会社吉川工務店 代表取締役
NPO法人ダッシュ明石 理事長
明石・ほんまち三白館 運営理事

副代表

清水 克俊
1級建築士
ヘリテージマネージャー
アトリエcinq 代表
兵庫県ヘリテージマネージャー機構 副代表

メンバー

田中 正三
1級建築士
ヘリテージマネージャー

メンバー

 正垣 俊行
1級建築士
ヘリテージマネージャー
有限会社竹中設計事務所 代表取締役

メンバー

鎌谷 正士
1級建築士
ヘリテージマネージャー

メンバー

成田 幸男
1級建築士
ヘリテージマネージャー

メンバー

山口 晃需
1級建築士
ヘリテージマネージャー

副代表

清水 克俊
1級建築士
ヘリテージマネージャー
アトリエcinq 代表
兵庫県ヘリテージマネージャー機構 副代表

明石ほんまち三白館

明石の大衆演劇専門館「三白館」は老朽化した映画館を地域復興のために改築した建物です。老朽化した映画館の前身は芝居小屋でした。ヘリテージ明石では、その計画から設計、施工に至るまで側面より関わり、支援いたしました。
玄関ホール
舞台
客席
ヘリテージ明石の目的
1 明石にある歴史的遺産を再発見する。
2 明石にある歴史的遺産の価値を広める。
3 明石にある歴史的遺産の活用を図る。
4 当会の主旨に賛同し、活動する人材を育てる。

   ヘリテージ明石規約

 

(名称)

第1条 この団体は、「ヘリテージ明石」と称する。

(事務所)

第2条 この団体は、主たる事務所を兵庫県明石市東山町3773-37に置く。

(目的)

第3条 この団体は、明石市内の文化財その他地域固有の資源(以下「文化財等」という。)を保存し、かつ、その活用を図ることにより、当市のまちづくり、文化又は産業の振興に寄与することを目的とする。

(事業)

第4条 この団体は、前条による目的のため、次の事業を行う。

明石市内の文化財等に係る調査研究、修復、維持保全、活用又は啓発に関する事業 前号による事業のほか、前条による目的を達成するために必要な事業

(入会)

第5条 この団体の目的に賛同し、会員として入会しようとする者は、入会申込書を代表に提出し、総会の承認を得なければならない。

(入会金及び会費)

第6条 会員は、別に定める会費を納入しなければならない。

(退会)

第7条 会員が次の各号の一に該当するに至ったときは、退会とする。

退会届を代表に提出したとき。 本人が死亡し、又はこの団体が消滅したとき。 継続して1年以上会費を滞納したとき。

(役員)

第8条 この団体に次の役員を置く。

代表  1名 副代表 1名 会計  1名 監事  1名

(選任)

第9条 役員は会員の互選により選任する。

(職務)

第10条 代表はこの団体を代表し、会務を総理する。

2 副代表は代表を補佐し、代表に事故あるときは、その職務を代行する。

3 会計はこの団体の経費等に関する会計事務を行う。

4 監事は会計を監査する。

(任期)

第11条 役員の任期は1年とする。但し再任を妨げない。

(総会)

第12条 総会は、次の事項について議決する。

事業計画及び収支予算並びにその変更 事業報告及び収支決算 役員の選任又は解任 入会金及び会費の額 規約の変更 その他運営に関する重要事項

2 定例総会は、毎事業年度1回開催するほか、代表が必要と認めるときは、臨時総会を開催することができる。

3 総会は、代表がこれを招集する。

4 総会の議長は、その総会において出席した会員から選出する。

5 総会は、会員総数の過半数の出席がなければ開会することができない。

6 総会の議事は出席者の過半数をもって決し、可否同数の時は議長の決するところによる。

7 やむを得ない理由により総会に出席できない会員は、あらかじめ通知された事項について書面をもって表決し、又は他の会員を代理人として表決を委任することができる。

(経費)

第13条 この団体の事業を行うための経費は、会費、寄附金その他の収入をもって充てる。

(会計年度)

第14条 この団体の会計年度は、毎年4月1日から翌年3月31日までとする。

(委任)

第15条 この規約に定めるもののほか必要な事項については、代表が定める。

 附 則

 この規約は、平成18年4月1日から施行する。